紅茶によって発展した港町「上海」小さな漁村から中国最大の経済都市に発展した上海、きっかけは紅茶でした。

茶と上海開港

17世紀よりヨーロッパの上流階級に広がった喫茶の習慣は18世紀英国で産業革命がはじまると中流階級にまで茶は定着していきました。

当時英国は、清国から主に茶と陶磁器、絹を輸入していましたが他方英国から清国に輸出するものは時計などに限られ、英国の大幅な貿易赤字であったため、植民地のインドで栽培したアヘンを清国に密輸することで赤字を相殺する政策を行いました。

その結果、清国ではアヘン吸引の悪幣が蔓延し、対英国の貿易収支も赤字となり国内の銀が流失し、物価も高騰したため、清国はアヘン取締を強化しました。

それに反発する英国と清国との間に1840年「アヘン戦争」の戦端は開かれ、1842年に清国が英国に対して香港を割譲し、上海など5港の開港を認めることで戦争は終結しました。

1843年英国より上海に領事が派遣され、開港した後、川沿いのバンド地区を英国租界地とし、「ジャーディンマセソン商会」や「ギブリビングストン商会」などの商社が進出し、茶やシルクなどを商いました。

上海は当時の中国経済の中心であった蘇州に近く、交通の要衝にも位置していたことから、貿易港として発展し、1860年より世界最大の紅茶輸出量を誇りました。

ティークリッパーの時代

東インド会社が茶貿易を独占していた時代は、茶は中国からロンドンまで1年から2年間かけて 運ばれていました。
長い航海で運ばれる茶葉からは香りがなくなり、品質が劣化するため果実や花で香りづけを行い、保存状況により品質にバラつきがでるため、茶葉を混ぜて品質を安定させるという いわゆるブレンドを行い、販売される様になりました。

1833年茶貿易が自由化され、「ギブリビングストン商会」など新規茶商が参入します。
また1849年に英国航海条例が廃止されたことにより中国~ロンドン航路にアメリカの新造された高速帆船が参入し、1850年12月ロンドンまで約100日間の航海 でたどりついた「オリエンタル号」は、史上はじめてその年に摘まれた新鮮な茶をロンドンに届け、 積荷の茶は大変な高値で買い取られました。
これ以降、「ティークリッパー」と呼ばれる紅茶運搬専用の高速帆船の建造が盛んになります。

1856年、ロンドンの紅茶商が毎年、その年の新茶を一番最初にロンドンに届けた帆船に賞金を払うことを発表 してから、「ティーレース」と呼ばれるティークリッパーによる競争が行わる様になります。

1870年、スコッチウィスキーの銘柄としても知られる有名なティークリッパー「カティーサーク号」が処女航海で上海に回航し、ティーレースに毎年参戦しますが、ヨーロッパまでの航路を大幅に短縮するスエズ運河が開通し、船体が長く狭い場所での操船の難しかったティークリッパーの通行を認めなかったため、1878年を最後に紅茶輸送を退きます。
それ以降、茶葉の運搬は次第に蒸気船が担う様になってゆきます。

そして今日へ

東アジアにしかないと思われていた「茶の樹」が英国植民地であったインドのアッサム地方に自生しているのが発見され、「アッサム種」の栽培に成功します。 また、中国原産の茶の樹である「中国種」をインドで栽培する試行錯誤も行われ、当時の英国植民地で唯一、インドのダージリン地方で成功します。ダージリン産のものは原種が「中国種」であることから珍重され、今日も名声を博しています。

19世紀後半よりインドの紅茶生産量が拡大し、20世紀初頭には、紅茶生産量において中国を 上回る様になりました。特にアッサム種は茶葉も大きく、高温多湿の地域でも生育できるため アッサム地方以外にもセイロン島などでも栽培される様になり、紅茶の大量生産と大衆化をもたらします。

一方で中国の紅茶生産は長い戦乱と混乱の時代に衰退しましたが、改革開放そして経済発展の時代を経て中国紅茶は高級種として復権してきました。